真の教養ほど難しいものはない。

勉強できて、良い学校出て豊富な知識をもっている人は教養がある。まさに秀でた知性の塊だ。一方で、そんな人の中にはそれだけで自分に価値があり偉いと思いこんでしまう人もいる。果たして、秀でた知性が真の教養なのだろうか?真の教養というのは、それに加えて相手を思いやれる気持ちを持ち合わせている人のことを言う。相手の立場でものごとを考えて、威張ったり自分の主張を無理に通そうとしない、そんな人が、本当の教養の持ち主なのだ。人間なのだから、相手のことを考えられる知性も身に着けなければならない。

初めてを理由にする人

初めてやることに対して、批判的な考えをもつ人。誰だって何でも初めてやることがある。むしろ、そういうことだらけだよ人生って。しかし、初めてやるから、その人の失敗が情けないとか、頼りなくて当然と思ってしまう人がいる。あんただって子育てなんて1、2回しかやったこないやろ。なんで人のことそんなに偉そうに言えるねん?逆のことやられてみ、嫌やろ絶対!初めてどうこうじゃなくて、その人のひたむきさや誠実さとか見るんじゃないですかね?

辛い体験をしたからこそ

嫌なことを経験したことがある人こそ、人に優しくなれる心をもちやすい。自分がされて嫌なことしたくないと思うはずである。それが本来の人間としてあるべき姿である。ただし、悲しきかな、それとは全く真逆になってしまう人間がいること否めない。クレーマーなんかは典型的な例だ。自分もそういう思いをしてきたからこそ、自分もやって当然で相手はその要求を絶対に飲み込んでくれると思う。そうではない。そんなのはただのあてつけ。誰も救われない。気がつくべきである。人間の中にしかない魅力に。赦すことでお互いが救われることを。

安い人間

何かと文句を言ってくる人。謝罪をされると気持ちよくなってしまう人。とにかく、人のせいにして、自分の主張があたかも正論だと思ってしまう人。自分が安い空っぽの中身の無い人間だと気がつけない。人には、その人に必ず正しさや考えがある。しかし、そんなことはお構いなし。相手を論破して優越感に満たされる人。満たされない心が、そういった心理を生み出し感情を優先してしまう。とてもではないが、人間だとは思えない。人間に必要なのは筋を通す力だ。

協力して生きる

ニュースでモンペが取り上げられる現在。教員に無理な要求や理不尽をしてくる保護者。そのストレスから退職する教員陣。モンペは子どものため、という主張をしますが、子どものためではなく自身のフラストレーションをぶつけているだけ。子どものためは、うそwそういう言葉をつかえば、自分は正しいと思いこんでしまう浅はかな考えw気がつくべきは、そんな無理難題の要求は子どもためではないこと。むしろ逆で誰のためにもならず、周囲を不幸にずるだけ。子供のためを思うなら、教員陣を赦すこと。その単純な真理に気がつくべき。

変化を悪いと考える人

仕事や何かの練習でやり方を変えると、納得しなかったり、人の失敗で変わって迷惑と思う方おられます。いつからそのやり方が正しく効率良くみんなにとって生産性を高める方法になったのでしょうか?そのやり方を変えたら、周りもそれに合わせて変えていかなければならない。これは裏面。表面を見れば、最初は戸惑うが実はそっちのほうが効率良かったり、安全性を高めていけることにつながるとも考えることができる。つまり、変化を受け入れたくない言い訳をつくっているだけですね。

勉強の本質

たくさんのことを知る=知らない自分を知るテストの点数で盛り上がる生徒や学生。点数の順位で競う学校。勉強は確かに大事だ。勉強をしてこなかったからこそ後悔している。豊富な知識をもっている方もいる。中には、多量の知識を自慢する人もいる。果たして、たくさんのことを知っていることは人として優れていることになるだろうか?どんなに潤沢な知識もっていても謙虚で勉強不足と言う人には頭があがらない。むしろ、自分の不教養を恥ずかしく思う。勉強というのは、知らないこと知り、知らない自分がいることを確認するためのものなのだ。